七色遠景 -2ページ目

指先 Ⅱ

キャンディピンクのマニキュアの

濃密な波に飲まれた指先を
今夜も宥めて眠らせる

エナメルに覆われた厚い殻の下で

指先が啼く

指先が啼く


掴んだものを 手放して

指先が啼く

指先が啼く

触れたものを 懐かしみ

指先が啼く

指先が啼く

創ったものを この手で壊して


指先

この指先に触れた花は すべて枯れ
この指先に触れた木々は すべて朽ち
この指先に触れた鎖は すべて錆び
この指先に触れた人は すべて去った
それでも
触れられるものがあるなら
触れられる人がいるのなら
わたしはこの指先を伸ばす


旅人は言った。


「じゃあ、話をしてあげよう。

今までした旅の話と、これからする旅の話、

どっちがいいかい?」



ひとり南国にて

夏を追いかけてきた
サンダルの底は熱を吸い込む
堅い革靴を履き疲れ
足の指先の歪んだ部分に
無垢な白い砂が
すっと呼吸するように入り込む
突然笑い出す
何も知らない子供みたいに

南国の町の路地裏で
道を尋ねた浅黒くて骨太な白髪の男性の
隣にちょこんと座っていた
女の子は
わたしが見えなくなるまで
ずっと手を振っていた

あの笑顔は都会では見ないよと
さとうきび畑を見たような
ありふれた感想を呟いて ひとり
重いボストンバッグ片手に
缶コーヒーを 額に当てる

手を振り返した
都会から背負いきれない重い荷物を
こんな遠くまで運び疲れた
わたしの表情が

光が呼吸するような
あの笑顔に
すこしでも近づけたなら

憧れの香り

 いつも皆の輪に加われずに、背中を丸めて吹奏楽部の部室の壁に寄りかかっていたわたしに、杉沢先輩は言った。

「えみちゃんは、もっと背筋を伸ばせばいいのに。背が高いの、カッコいいのに勿体無いよ」

杉沢先輩は優しい笑顔で微笑んだ。柔らかな前髪が緩やかに後ろに流れていて、淡いピンクのサマーセーターから優しい香りがした。

そのアーモンド色の瞳に見つめられると、同性ながらも、頬が紅潮するようだった。

 わたしは先輩に憧れて、黒かった髪を栗色に染め、針金のような直毛も柔らかなウェーブにして、それまで黒や灰色のシャツやパンツばかり着ていたのに、ピンク色の麻のセーターを買った。先輩が時々着ているノースリーブは自信がなかったから、半袖のセーター。

スカートも履いた。先輩ほど丈は短くはないけれど、足は元々太いほうじゃないから、なかなかさまになるって、今まで話したこともないようなタイプの茶髪の明るい店員さんも言ってくれた。

 それから、学園生活は、わたしにとっては変わった。周りの扱いはいつもの地味な子だけど、わたしの世界は違った。

杉沢先輩も

「すっごい、モデルみたいだよ!」

背が高いことが恥ずかしかったわたしも、敢えてヒールを履いて、しゃんと背筋を伸ばして歩けば、何だか自信が出て来るようだった。

 そんなある日、吹奏楽部のサックスの練習中に、ちょっとしくじった。

「お前は、ミスまで、杉沢と同じところだな」

すると一人の女子学生がクスッと笑い、部室は大爆笑に包まれた。

 ずっと、皆は、わたしが先輩の真似をしていることに気づいていたのだ。わたしは、皆に顔を見られるのも見るのも恥ずかしかったが、一番耐えがたかったのは、杉沢先輩の表情を見ることだった。まさか笑ってはいないだろうけれど。でも、とても直視できなかった。

 わたしは実家の部屋に帰り、退部届を書いた。

杉沢先輩の真似を皆に笑われるほど、露骨にしてしまったわたし。

ただ、先輩に近づきたくて、影響を受けていただけなのに、わたしがしていたのは、とても比較にならない手の届かない美女に対する、地味女のみっともない猿真似に過ぎなかった。

髪の色も、シャツの色もスカートも。

そもそも、高校までトランペットだったのに、大学の吹奏楽部でサックスを選んだのも、先輩の影響だった。

そんなわたしでも唯一、出来なかったことがある。

先輩の香水。これだけは付けられなかった。

杉沢先輩が廊下を通る時の、あの柔らかな野苺のような果実とマグノリアやジャスミンの香り。

いくら、服や髪形は真似できても、わたしにはあの気高さが似合うはずがないのは解りきっていたから。

買ったまま、子供の頃から使っていた学習机の奥に、金色のキャップの輝く淡いピンク色のガラスのボトルを閉まっておいた。

 それから、わたしは黒い服、黒い髪に戻したまま、大学を卒業して、サックスには触れなくなった。先輩にも結局、顔が合えばこちらから避けるようになっていた。
サックスは実家の部屋の隅に置き去りのままだった。

わたしが卒業して三年後、先輩の訃報を聞くまで。

皆から愛されていた先輩の不慮の死は、就職して、大学との誰とも交流が殆どなくなっていた一人暮らしのわたしの耳にもすぐ入ってきた。

わたしは葬儀帰りに実家に帰ると、誰もいない部屋で夜、サックスを吹いた。あの吹奏楽部でよく吹いた曲を。高揚するようなメロディーは、あのキャンパスの広い芝生の匂いが瞼の裏に浮かぶようだった。
すると、わたしの古いサックスの奏でるメロディーは、また先輩と同じところで躓いた。わざとじゃないのに。

 その瞬間、涙が零れて止まらなくなった。

握り締めた掌からとめどなく涙が伝い零れた。わたしの手の中には、先輩のお母様が、宛名がわたしになっているからと、わたしに渡してくれたピンク色のボトルがあった。

「えみちゃんにきっと似合うよ」

日付は、わたしが退部届を出した後だった。杉沢先輩は、ずっと、わたしのことを、こんなにも気にかけていてくれたんだ。意気地もなくて、逃げ出すように部活を辞めたわたしを。
先輩と同じ香り。わたしが付けたくても、畏れ多くて付けられなかった、高嶺の白い花の香り。
 実家を出てから触れていなかった、学習机の引き出しの奥を探った。
 同じ香水が出てきた。

もっと、あの時、先輩と話せばよかった。
 変わらなければいけなかったのは、外見じゃなくて、わたしが、内面から胸を張って生きることだったのに。

 先輩がくれた香水と、わたしの学生時代の香水を、それぞれ一吹きしてみた。優しい先輩の香り。そう、この香り。先輩の優しい笑顔、溌剌とした声。誰にでも気を配り話しかけてくれた、白い花のように周りを明るくする先輩。
 気がつけば、あれからわたしはまた背中を丸めて歩いていたことに気づいた。

 それから、靴底の磨り減ったローヒールを捨て、

磨かれてつま先の光るハイヒールを履いたわたしは
自分をもっと好きになれるようにしゃんと胸を張って歩き、ピンクのセーターもスカートも着られるようになった。

 なったけれど、結婚しても新居の白い鏡台に置いてあるあの香水はまだ付けていなかった。
 桜貝のようなピンク色の口紅を塗って、そっと窓からの光を映して煌く香水に手を伸ばした。

 もう、これを付けてもいい女性になれたんでしょうか、先輩。

 その日は先輩の命日だった。沢山の白い花を抱えて、わたしは優しく高貴な香りを纏って部屋を出た。